国民国家としてのイスラエル
イスラエルの建国の歴史の本を読み始めた。
19世紀末から20世紀初頭、国民国家が各地で誕生し始めた。
あるいは誕生させようという機運が高まった。
イスラエルもその一つなのだと知った。
各地からパレスチナに移民が入ってきて、入植していった。
ちょうどそのころ、日本では北海道に入植していた。
イスラム国家が周囲に存在せず、マイノリティーなら、イスラエルも同化政策を強行したかもしれない。
国民国家というのは、内と外を定義する。
国境だけでなく、国民を定義する必要があり、国民は、宗教や言語などの文化をもって規定される。もちろん、多言語や複数の宗教の国は存在するが、単一のほうが強い。
国というのは無理して成立させているところがある。イスラエルは特殊なところもあるが、建国にあたって膨大な苦労をしている。
日本だって、明治維新やあるいは、そうした根底にある、勤勉革命と呼ばれるような心性、今時のいい方なら社畜根性が国を成立させてきている。もちろん、卑下するものでもなく、今、なんだかんだ言っても日本が豊かさを確保していることについては本当に感謝するけれども。
とかく、無理が出てくる(国民の義務)のでそれを正当化する必要がある。その過程で、国民を定義する必要があるし、定義すれば、そうでないものを排除していく方向に進まざるを得ない。
アメリカならネイティブアメリカン、オーストラリア、ニュージーランドしかり。
中国は現在進行形でチベットに対して強行している。
中国、あるいはイスラエルは、ある意味で、さんざん化石燃料を使って発展しておいて、今更規制することに反発するのと同じく、お前らだってやってだろう、と言いたくなるのかもしれない。ある意味で、ガザ地区は最後の総仕上げなのだと。どの国だって似たことやってきたんだろう、と。
現代の国際社会はさすがに、そんなことは認めない。だけれども、侵攻するイスラエルを西欧社会が支持するのはおかしいと発言したら総叩きにあうような状況はおかしい。ふつうに現状をみれば、イスラエルとロシアがやっていることは非常に似通っていて、逆だというのは筋が通らない。結局のところ、世論もしょせん、パワーゲームであり、自分たち側が正義だと、宣言しているようである。
もっとも、パワーゲームである以上、プレイヤーはさまざまである。